町家や路地が印象的な京都の町並みの中に、

6車線、時には8車線もある広い通りがあります。

堀川通です。

 

南から北に上り、御池を過ぎると東側に

堀川という小さな川が現れるので、

通りの名にだれもが納得されるでしょう。

丸太町を過ぎると、

西側に背の低い3階建ての団地が見えてきます。

これが『堀川団地』です。

 

太平洋戦争前、

現在の広い堀川通は存在していませんでした。

今の堀川団地がある一帯には、

堀川と葭屋町通の間に、

西堀川通と呼ばれる南北の細い通りがありました。


その西堀川通を挟んで、

中立売通と丸太町通の両側に

250余軒の様々な商店が軒を連ねていました。

これが 『堀川京極商店街』 で、

今の堀川商店街の前身に当たります。

 

終戦間際の建物疎開。

 

建物疎開とは、

空襲により火災が発生した際に

周辺住宅や重要施設への延焼を防ぐ目的で、

防火地帯を設ける為に、

計画した防火帯にかかる建築物を

強制的に撤去する国策でした。


堀川の南北一帯が

広域防火帯として計画に位置づけられ、

太平洋戦争末期(昭和20年)になって、

建物疎開が実施されることになり、

堀川京極商店街もそこに含まれていました。

 住宅や店舗の明渡しを求める

「戦時退去命令」が発せられ、

住民たちは猶予期間内での

強制退去を余儀なくされました。

住宅や店舗等は解体・撤去され、

堀川京極商店街は姿を消し、

代わりに広い空地が出現しました。

 

堀川京極商店街で

建物疎開が行われてから間もなく、

日本は終戦を迎えました。

住む家、商いをする店を

なくした旧地権者たちは、

堀川通の用地とならなかった

西側の民有地に居住していました


京都府住宅協会

会長は知事:現京都府住宅供給公社の前身)は、

住宅難解消と堀川商店街の復興をめざして、

昭和25年から28年にかけて

1階に14戸の店舗と48戸の店舗付住宅、

2階、3階を122戸の賃貸住宅とした

店舗付き集合住宅を6棟建設しました。

 

 

62戸の店舗は戦後復興に大いに寄与し、

今日まで地域の商店街として発展してきました。

これが、現在の堀川団地です。

 

堀川団地は全国初の

店舗付き集合住宅としても注目を浴びました。

前面(堀川通側)に店舗を、

奧の西側に住居を併設した

店舗付き住宅として設計されています。

この店舗付き併用住宅には原則として

堀川京極商店街で店舗を

営んでいた方が入居しました。

​~京都府住宅供給公社 堀川団地特設ウェブサイトより抜粋~

 

激動の時代を

生き抜いてきた堀川商店街は、

​今も地域住民の生活を

支えています。

建物の改修工事や、

新しいお店の出店を繰り返して、

これからも地域に愛される商店街を

目指して進化しています。

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